田中祭り
 平成10年から5月4日に行われている田中祭例大祭の神事は、古来5月1日に執り行われていました。宝暦11年(1761年)に、祭礼の御制法とする「氏子誠意祭祀格式」が定められていますが、後鳥羽天皇の御代・文治年中(1188年)に、佐々木四郎高綱が武器を献納してこの神事を行ったのが、田中祭の起源といわれています。
 高島市には神社の例祭に、流鏑馬神事や競馬などを行うところが多いのですが、なかでも「田中の馬祭」は有名でした。役馬15頭を初め氏子中が飼馬全部を出従させる持馬、氏子が他村の馬持ちに依頼招請し献納する客馬、さらに他村の馬持ちが随時に来場する門借馬などの方法で頭数を増やして、盛大に行われていました。
 昭和30年代前半までは、多いときには120頭を超える競馬(出陣化粧馬)神事の古風を伝えて来ました。耕耘機が農家に普及し、馬を飼う家が減るにつれて維持が難しくなり、今では役馬1頭のみの神事になりました。
 
 5月4日、好天に恵まれて例大祭が執り行われました。


 田中神社の傘鉾は、御奈良天皇の天文年中(1530年頃)に、佐々木氏の部下の田中二郎惟氏がこの田中の地を分領されたとき、産土神に五色の幣帛を奉納したのが始まりとされ、江戸時代に衣装張傘鉾に改められています。
 この衣装張傘鉾は、田中郷へ嫁いで来た花嫁衣装「打懸・黒・赤襦袢と帯3筋」を、巧みに組み合わせて作られています。従って傘鉾を出すことが出来るのは結婚した順で、夫婦揃っていることが条件でした。
 渡し番である南市区の傘鉾宿は、伊藤義雄氏宅でした。
  宵宮の日、朝から伊藤さんの自宅・作業場で組まれた傘鉾は、宵宮渡しが済んで今日が本祭りへの参加です。
渡し番の年には、傘鉾の上に金の御幣が付けられます。
子供会の子供神輿は、一足先に惣社神社を出発。
南市区内を巡回したのち田中神社へ。

 このページの写真には、南市区長の西川忠夫君・区会計の山下定幸君からもらったものが多数混じっております。珍しく私が写真に載っているのはそのためです。
 流鏑馬は西川雅章君

 使発走は長男の左千夫です。

 流鏑馬以外は馬場区の佐田神社へ参拝。

 露払いを勤める南市の若者に混じって、スウェーデン人のアントン君も参加してくれました。写真の中央に写っている丸刈りの青年が彼です。

「弓の手」の神事


 
子供会の5/6年生による奉納踊り。

 
私たちはこの体制でお迎えをします。

 

御旅所での式典ですべての神事が終わります。

無事、全ての神事が終わったことを神前に報告して、お祭りが終わりました。
 
後 宴 祭5月5日
 例大祭は宵宮から後宴祭までの3日間、好天に恵まれ無事終了しました。こんなに天候に恵まれたお祭りは、ここ数十年記憶にないと宮司が言われたほどで、有り難いことでした。後宴祭には少し気が楽になって、献撰の模様を写真に撮りました。宮司が一番上にいて神前にお供えをしますが、大総代の私は宮司に手渡す役目。私の前が南市区長で神社会計を勤める西川君。以下順不動ですが一列に並んでお供え物を手渡して来ます。撤撰の時はこの逆順でお供えを下げてゆきます。
後宴祭の後は田中郷の会議があり、年間計画や予算の審議をします。全てが終了すると直会になります。

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